都市精彩

 腕をかざすと、センサーが正しく機能し、僕を認識する。感じよくくすんだ灰色に近い白の扉が、柔らかい空気音をたててスライドする。部屋の温かい照明が灯り、真っ白い照明の廊下から、かすかにオレンジがかかった室内へ。そう広くはないけれど、気に入っている我が家。ただいま。心の中でつぶやいてみる。

 鞄を置いて、上着を脱ぎ、壁を見やってインフォメーションディスプレイを起動した。この狭い部屋には不釣り合いな、ハイスペックの光ディスプレイ。この部屋にある物の中で、一番気に入っている。

 シャツを脱いで部屋着に着替えながら、今日一日の電子メール、購読データ、自動収集データを一瞥する。セマンティックウェブテクノロジーの進歩が、ネットサーフィンという言葉を事実上の死語にして久しい。もちろん緊急性を要する通信や情報検索はその場その場で行うが、特に急ぐ必要のないことは、ソフトウェアが勝手に用意しておいてくれるのを受け取ればいい。もはや自分の目でハイパーリンクを一つ一つクリックしていく必要は無くなった。

 30分前に配信されたニュースが目に留まった。脱いだズボンをたたみながら、顔だけ向けてそのページをアクティブにする。



〈SIN社員、機密情報を持ち逃亡か〉JBB 20:13

 今日20時(JST)、コンピューターハード/ソフトウェア開発大手の株式会社SINは、SINの社員で第3開発室室長補佐の男が、同開発室の機密情報を持って失踪したことを発表した。

  SINによると、室長補佐は今朝出勤せず連絡も取れなかったため、不審に思った上司らが室長補佐のデスクを調べたところ、機密情報の取り出しと逃亡をほのめかす内容のテキストファイルが見つかった。また実際にデータバンクを調べたところ、本来室長以上しか知り得ないパスワードが入力され、機密情報が読み出された形跡があったという。

 SINは室長補佐を即日解雇し、産業スパイとして告発した。現在警察が男の行方を追っている。

 第3開発室はSINのハードウェア部門を代表する開発室で、光ディスプレイの製品化を業界で初めて行った開発室である。SINは機密情報の内容についてはコメントしていない。(→関連ページ 13)


 心臓が奇妙に存在感を増して、額に冷や汗が浮かんだ。

 記事自体は素っ気ない記事だった。産業スパイにしろ、単に会社への謀反にしろ、こういう事件は絶えない。テクノロジーが進歩しても、ヒューマンエラーや人間の裏切りはカバーしきることの出来ない永遠の課題だ。しかし一方テクノロジーの進歩によって、ひとたび起こってしまった後では、こうした事件はすぐ解決されるようになっていた。

 そんな平凡で退屈な記事が僕のパーソナルファイリングにかかってここに表示されているのには、もちろんわけがある。僕がその室長補佐の男を知っているからだ。

 僕は冷たく輝く光ディスプレイに背を向けた。心を落ち着かせるように、ゆっくりと冷蔵庫を開けて、今日の分のボトルを取り出して、一口飲んだ。落ち着け。

 ……落ち着いたとはとても言えない。もう動悸が激しい。落ち着け。

 もう一度壁に目をやり、記事を始めから読み直す。SIN第3開発室、室長補佐。上村に違いなかった。


 突然、部屋の沈黙を破って、ベルの音がなった。

 リストユニットに映像通信が来たのだ。電子音が逆に白々しい。

 通信相手の名前を見て、僕は驚いていいのか、当然だと思っていいのか、分からなかった。まさにその男、上村である。トーストはバターを塗った面を下にして……。掲げる左腕が少し震えた。僕は映像通信をアクティブにした。

「やあやあ岡本。もうニュースは見たか?」

 上村の半身の映像が僕の腕から飛び出し、いつものオーバーな身振り手振りで話しかけてきた。このリストユニットも3D精彩光ディスプレイで、相変わらずピンピンと飛び跳ねた上村の髪の毛一本一本までしっかり見える。

「うん、ちょうど見たとこ。か、かみむらお前、ホントにやっちゃったのかよ」

「ああ、とりあえず今のところは、報道はわりと正しいかな。俺もそろそろ独立するその時だと思ったから、あそことはおさらばだ」

 そう言ってふふんと笑った。自分がやっていることの重大さが分かっていないのか、いや逆に僕の方が馬鹿なのかもしれない。ああ、極秘情報持って逃亡ね、手配ね、はいはい騒ぐような事じゃないさ。そう思えてくるくらい、上村は軽い口ぶりだ。久しぶりの感覚。

 僕がやれやれと黙っていると、上村は急にまじめな顔になって、ずいと一歩前に出て、質問した。

「で、だ。俺たち、友達だよな?」

「何を突然言い出すんだよ、俺たちは……、ああ、間違いなく親友だ。けど俺としては面倒に巻き込まれたくはない」

 先回りして付け加えた。上村がこんなことを言い出すからには僕に何か協力しろとでも言うのに違いないと思ったからだ。まあ本当は別に嫌ではないけれど、一応。

「残念ながらそうはいかないだろうな。そう、たった今言ってくれたように俺たちが親友だからだ。つまり俺たち今まで頻繁にやり取りしてきたし、さらには定期的に直接会ってもいる。その上俺たちは高校からの親友で、高校時代何をやっていたかも、奴らが本気で調べれば見えてくるだろう」

 上村のわざと作っている尊大な口調の中から、僕は大体の事情を読み取った。

「そして、その二人の片方であるお前は、現在産業スパイの容疑で追われている、というわけだ」

「物わかりが良くて助かる」

 つまり、僕も警察に確保されて重要参考人として事情聴取される可能性がある。聴取なんて目眩がする。

「それで、SINは最近国ともつながりがあるだろ、そうすると警察もかなり強力に動いてくるはずだ」

 面倒なことになった。僕は溜息を付いて、ボトルからもう一口飲んだ。甘美で鋭角的で張力に満ちた味がする。

「どうしたらいい?」

 僕が訊くと、上村は再びまじめな顔と身振りで言った。ともかくこういう切り替えがこいつは早い。

「今、家だろう。すぐそこからは出た方が良い。というか、時間的にそろそろ警察がそのマンションのエレベーターに乗り込んでいてもおかしくない。ベランダから非常階段に出られるだろ。そっちから出るんだ。俺が出来るだけ手助けする」

 ともかく警察につかまるのは嫌だった。しかもこの件で僕には全く非がない。それで事情聴取なんぞ御免だ。


 上村の言うことが本当なら、急いだ方が良い。捜査目的がある以上、警察は登ってきたらすぐドアを開けるだろうし、部屋に入って来られたら僕に勝ち目は無い。というか抵抗すれば余計に逮捕の名目を与えることになる。逃げる以外の選択肢は無い。

 僕は玄関から靴を持ってきて、壁のディスプレイを見て電源を切った。ベランダへ出る窓のロックを解除し、銀色の月の光の中に立った。紺青の闇。足下から冷気が流れてきて少し肌寒い。振り返ると、部屋はいつもよりよそよそしく僕を見つめている。

「ちょっとまて、そのインフォディスプレイ、ログと起動をロックしてくれ、これ使って」

 リストユニットから上村の声がして、データを受信したことを示す電子音が鳴った。室内のインフォメーションディスプレイに短距離光通信でデータを転送し、有効にする。上村がデータをリストユニットの方に送ったからには、ワールドネットワークの端っこすら、経由するのは望ましくないのだろう。

「トリプルDESだ。何世代前かな。いやまあつまり、頭が固い奴らには、カードキーより南京錠ってわけ」

「なるほど」

 まあ確かにある程度の時間稼ぎにはなるだろう。しかも上村のことだから、警察が僕の部屋に入ってインフォメーションディスプレイを調べ始めたらそのことが分かるようになっているに違いない。相変わらず準備が良い。僕はベランダの端まで行って、風雨にさらされてぐらぐらのフェンスを越え、非常階段に出た。端っこの部屋で助かった。


 心臓をバクバク言わせながら、他人事を気取った非常階段を鋭い足音と共に一気に駆け下り、一階についた。マンションの裏側から出る形になった。マンションの他の住人たちは、各々の静かな夜を過ごしていることだろう。薄暗がりの通りには、いつもの愛嬌の無い黒猫一匹いない。上村が言う。

「とりあえず、ともかくそこを離れるんだ。そうだな、商店街だ。この時間でも人が多いから紛れ込めるだろうし、ゲートも、うん、無い」

 僕は上村の指示に従った。マーケット、商店街へ向う東の道を早歩きで進んだ。街灯が泰然と道を照らしている。最初は肌寒かったのが、緊張と運動とで、もう暑く感じられる。そういえば部屋着のまま出てきてしまったが、まあ、不審がられるほどの服装でもない。


 ゲート、というのは、街の要所に設置された、個人識別ゲートのことだ。善良な市民たる僕たちは、腕にアイデンティティマイクロチップを埋め込まれている。そしてその個人データにより、あらゆるデバイスとの間で認証を行っている。だから家のドアのアンロックも、コンピューターのログインも、プライベートデータのデコードも、特に意識する必要がないのだ。だが、そのテクノロジーの『活用』は個人レベルにとどまらず、社会的にも僕たちは管理されている。ゲートが駅や公共施設に設置されることで、そこを誰がいつ通ったか、全て記録される。機械仕掛けの神は遍在する。もちろんプライバシーは厳重に守られているという建前だから、今の僕のような状況で無ければ、むしろ快適、便利、ということになってはいる。しかしお尋ね者の僕が今ゲートを通ったら、すぐ居場所が警察に知られることだろう。


「さすがにもう今じゃゲートのデータはいじれないしな……おっと、やつらお前のインフォディスプレイ開けたみたい」

 いよいよ追われていることが確実となった。足が自然に速まり、それを抑え、やっぱりまた速くなる。この振り子をぶら下げたような歩き方は暑い。汗をかいてその汗が蒸発していく。街灯の光が滲む。

「で、どうするんだよ。商店街で人ごみにまぎれるって言ったって限度があるだろ」

 本格的な逃亡生活をする気はないし、かといって上村のところに行くことも、できないだろう。

「んー、まあ俺の読みでは今晩逃げ切れば岡本はセーフだと思うがね。後数時間で、俺の計画が次のステップにうつるんだ。そうなったら、警察の方も岡本を追っても意味が無いってことに気づくだろう。だからまあ」

「つまり、俺は捕まっても捕まらなくても明日の朝までには自由の身。ただ、頭ん中めちゃくちゃにいじられたくなかったら、逃げた方がいいんじゃないの、ってことか」

「ん、物わかりが良くて助かる。それに、こうして二人で逃げるってのも、昔みたいでワクワクするだろ」

「おいおい、今、逃げてるのは俺だけだし、しかも俺は巻き込まれてるだけだし」

 確かにこの状況は良い迷惑だが、でも上村の言う通り僕はすこしワクワクしてもいた。歩き続けるうちに緊張が少しずつではあるが取れ、自己触媒的に興奮に転化されていった。黄銅色の月と、オレンジの街灯が薄闇を非連続に切り開き、その中を僕は破線状にするすると突き抜けていた。なんだか駆け出してくなってくる。前方に商店街の明かりも見えてきた。周りには誰もいない。

「おっと、ちなみに岡本、俺のことを心配する必要は無い。俺は絶対確実に大丈夫なサンクチュアリにいる」

 映像ですら上村は何やらくるくる動き回っている。

「もちろんだ。お前が仕掛けといてお前がヤバいんじゃ話にならないだろ」

「まあ確かにそうか」

「明日になって落ち着いたら、その上で今回の迷惑料の額を決定しよう」

 そんなことを言う余裕も生まれていた。何しろ懐かしかった。高校時代に戻ったような気分だ。

 そろそろ住宅街のエリアを抜け、商店街の外れに出る。まったくどこかに雑踏の源泉のようなものでもあるのか、マーケットは深夜でも人通りが絶えないから、それにうまく紛れ込めばどこかで一晩やり過ごせるかもしれない。少し風が出てきた。火照った体に心地よい。自分の肉体には血液が循環しているという実感がして、なんだか頬が緩む。風は前方から吹いてきて、ちょうど空に浮かぶ満月から降下してくるようだ。僕は銀色を仰ぎ見ながら、速いペースで歩き続けた。さあ、この角を曲がれば、商店街の入り口が見える。高層ビルの影が灰色のパーティクルを突き抜け、浮かんでくる……。

 が、しかし、鈍い光がきらめいた。

 目に飛び込んできたのは商店街の眩い明かりではなく、それを反射する円柱状の白銀のボディだった。心臓が三拍くらいすっ飛ばした。

「こんばんは。警視庁パトロールユニットです。夜分お急ぎのところお手数ですが、個人認証をお願いします」

 ああ。胃がよじれた。ユニットはそのボディの真ん中あたりをどことなく妖艶な緑に光らせ、そこに腕を差し出せと求めるようににじり寄ってきた。これはどうしようもない。逃げても無駄だ。もう駄目だ。万事休す。ユニットの動きが、ひどくどろどろとゆっくりに感じられた。ちらつく光で眼の奥が重い。心臓はあれほどうるさかったのに、今は席を外しているようだ。ユニットがずるずるずるずると、飛び出した自らの内臓を引き摺るように動く。処刑人は残酷な笑みをたたえ、凍りついた僕の眼前に類人猿の頭蓋骨一つ分くらい空けて、ふと、そこで何かに気づいたかのように、静止した。




 終わった、と思ったが、しかし、ユニットの緑鉛色の電光は吹き消されるように滅んだ。ファンの動作音もしなくなった。うつろな空白。

「なー、まったくそいつら、常時接続じゃなくて基本はスタンドアローンにしときゃ良いのにな。そう思わんかね」

 上村の声が、虚空に響いた。どこかよそよそしい音の響き方だ。音響調整中の劇場。

「おい、お前がやったのかよ? え、そんなんできんの?」

「ま、高校時代の俺とは違いますから」

 そういって、手をひらひらさせた。

 なんてことだと思った。さっきゲートは無理などと言っていたくせに、上村は警察のシステム中枢にまで侵入できることを示したのだ。こいつは本当に何者なんだ。僕は誰もいない舞台を放心して見つめていた。

「さっさと逃げた方がいいんでないかね?」

 そうだった。再び道路に立つ。心臓が帰ってきて暴れ出した。不思議と、動悸よりもその熱を強く感じる。駆け出した。僕は走った。すぐ商店街に入れる。地面のアスファルトまで熱を持っているようだ。体はやけに軽い。本当は地面に足がついていないんじゃないだろうか。

「んー、岡本、悪いんだがしばらく俺無しで頑張れるか?」

 上村無しで逃げる。これまでの感じではほとんど、いや確実に不可能なように思えた。

「ん、わかった。しょうがないな」

 しかし上村を引き止めるのもあれだと思ったので言わない。

「おう、すまんな。とりあえず商店街内をうろうろするしかないだろうな。あれだ、ツキを頼りにしろ。それじゃ、また」




 歩いている。商店街の雑踏を歩いている。さっきのユニットからの情報がいってないとすれば、この雑踏の中から僕を見つけ出すのはなかなか難しいだろう。

 なにせ、ここの商店街は色んな人がいるのだ。鮮やかなパレットは少女的な期待と不安と期待とをたたえている。

 光スクリーンの照明で、あたりはオレンジ色に染まっている。オレンジというのは、夜間やトンネルの照明として最も効率がいい色だと聞いたことがある。未だに省電力という中身の無い幻が世界中に漂っている。

 そのオレンジフィルターの世界に、クリスマス前のおもちゃ屋からパステルカラーのバケツいっぱいのおもちゃを持ってきてめいいっぱい散らかしたような、色々な色の色んな色の人がいる。クリスマスソングのリフレインは街の人々の背負った物語を取り除いて、雑踏という一つの空気に組み立てなおす。ここなら僕は目立たない一瞬の影になり煌煌と舞い散る桜の一枚の紙片になる。まだ少し怖いし僕の重心は安定しないけれど、どこかで僕は安堵する。僕の視点は僕を離れて浮き上がり、仮装パレードを見下ろす。僕は流動するモザイクの中のひとかけらでしかなく、森は森としてみるから森なのだ。

 くぐもった雑音の響く温水プールの流れにゆられて歩き続けながら、昏々と昔のことを考えていた。




 僕と上村は、高校で出会った。

 最初に話した時のことはよく覚えていない。けれど高校一年の夏までには大分仲良くなっていた。僕らは二人とも最新のテクノロジーに興味があった。そして他のクラスメイトと僕たちは互いにあまり興味を持たなかった。

 一年の夏に、僕らは初めてのヴァーチャルな冒険をした。

 上村が、平凡で退屈な暑さの夏のある日、「なあ岡本、月面基地って面白そうじゃないか?」とニヤニヤしながら聞いてきた。

 太古の昔から頭上に浮かんでいる、地球の唯一の衛星、月の表面には、今や月面基地がいくつも並んでいる。月面の開発や調査はここ20年で急速に進んだ。今や我々人類は地球の覇者から太陽系の覇者へと昇りつつある。月面旅行も、富裕層にとってはもう不可能ではない。ただかなりの時間がかかるので、実際に行く人物は稀であり、リニアリフト以前の地球一周旅行みたいな物だった。月面開発の目的は、商業よりも工業、娯楽よりも知的探求にあった。僕たちの世代が小学生の頃、ちょうど大規模な国際月面基地が完成し、科学少年たちは毎晩月を見上げた。

 僕たちは学校の空き教室から、国内の学校ネットワークを辿り、さらに海外のネットワークも辿り、徹底的に自分たちの情報を分からないようにして、月面開発委員会のデータバンクに侵入したのだった。僕たちは、と言うが、ほとんど全部上村がやったことだった。僕には知識はあっても上村のようにそれを自在にあやつれはしなかった。今までそんな話題は幾度も出たけれど、実際に国家の機関に侵入したのはその時が初めてだった。正直、度肝を抜かれた。

「月にはなんか、俺たちの知らない、ヤバいデータとかあるんじゃないか? さすがにルナリアンなんてのはぶっ飛んでるにしてもさ」というのが上村の動機だった。どうもルナリアンに興味があるらしかった。月に住む宇宙人のことらしい。どこまで本気なのかは分からなかった。

 結局、ろくなデータは奪えなかった。興味を引くような物としては、その年の春に地球を出発したシャトルが載せていた貨物の内訳のデータが見られただけだった。たいした機密レベルではない。むしろ、お前らにはこれで十分、と言われたような気がして、僕はちょっとがっかりした。だが上村は、「まあ高校生二人じゃ歯が立たんかね。……つまりルナリアンの可能性はまだ残っている」などと言ってニヤニヤしていた。僕はすこし、上村が好きになった。

 それから僕たちは似たようなハッキングごっこを繰り返した。悪意が薄いからごっこなわけだが、やっていることはごっこなんてレベルではない。今から考えればかなり怖い。いや、当時も怖く思って眠れないことはたびたびあった。ベッドで布団にくるまりながらにして、立ちくらみのようなめまいが襲うのだ。けれど好奇心と慣れには勝てなかった。それに、上村がいる限り僕らの身元が割れることは無いという無根拠な確信があった。実際高校を出て大学を出て社会人になっても、未だそのことでおとがめは受けていない。

 そのうちに、僕もそのハッキングの作業に加わるようになった。もちろん上村の手際の良さと判断能力には及ばなかったが、上村を補助することが出来た。また、僕の第二の役割はアイデアの提供だった。次に何をするか。どこを調べるのか。そんなことを僕は上村に提案し、ほとんど全部上村が喜んで実行した。




 ふと立ち止まった。後ろから歩いてきた鬱々とした黒服の男が僕の肩にぶつかって、僕に向って首を傾げながら追い越して行った。男の顔面は空白だった。僕はぼんやりしていて、それの意味をあんまり考えていなかった。僕の視線は目の前の宗教的イメージに吸い寄せられていた。

 ゲートがあった。商店街中にもゲートが設置されていたのだ。

 でも、僕は大丈夫だと思った。

 僕はゲートをくぐった。何も起こらない。

 もう僕は動揺していない。僕は、虹の七色全てにオレンジを重ねたような歓喜の歌声の粒子の中を、深い満足と共に、再び歩き始めた。




 僕らはゲートを出し抜いたこともあった。僕が提案したのだった。当時まだ導入仕立てだったゲートのシステムに侵入できないか、と。

 そのアイデアにいつも通りに上村は賛同した。「よし、じゃあ俺1000人計画だ。ドッペルゲンガーもびっくり」などと言いながら、もう準備のためのプログラミングの構成をメモしていた。僕はニヤニヤとタッチペンを走らせる上村を見ながら、もう何度目かわからないが、こいつは一体、何を考えているのだろうと思った。この高校の教室の中で、この上村という男は何なのだろうと思った。そして急に、彼が奇妙にいとおしく思えた。

 僕はその時、ハード面で貢献した。ちょっとしたコネで、何かと道具や材料を手に入れることが出来たのだ。僕は自分のマイクロチップの信号を解析するリーダーと、別のマイクロチップのデータを2セット用意した。上村と僕は共同して、一ヶ月の準備を行った後、侵入者に気づいてシステムが自動だか手動だか知らないが更新されるまでの数時間、世界中のゲートのなかからランダムに1000ヶ所を同時に通過し続けるという分身の術で精一杯楽しんだ。それがどうして楽しかったのか、今となってはよく分からないのだが。

 僕たち二人には能力があり、それなりの道具もあり、それらで楽しむ時間とアイデアがあった。


 二人でいるとき、上村は学校で退屈な生活を送っている時の十倍くらい笑った。上村は実は独特のユーモアもあるし陽気なやつなのだった。学校の皆にそれを知らしめてやりたくなるくらいだった。上村はこういう人間なのですと世界に向けて叫んでやりたくなることがよくあった。学校の皆が上村を悪く思っているわけではないけど、学校の上村はかみむらであってかみむらではないのだった。

 僕がなにか新しいアイデアを言うと、上村は目をキラキラさせ手をブンブン動かしてぴょんぴょん笑った。上村は自分で出したアイデアに対してもよく笑っていた。なぜか、オカルトなネタが多かった。彼は、オカルトなネタはあくまでネタで言ってるんですよ、というポーズをよくしていた。別にオカルトに限らず大体いつもそうなのだが、それは単に恥ずかしいのか、なんなのか、よくわからなかった。僕は、あなたがあくまでネタで言っているのをぼくは理解していてその上でネタとしてのってるんですよ、というポーズを示しながら冗談を返した。そうすると上村は、ぼくはあなたがぼくがあくまでネタで言っているのを理解していることを理解して……。この逆行性マトリョーシカ構築的会話は、最初のルナリアンの時からそうだった。




「そこの男! 止まれ!」

 粒子が、モザイクが、雑踏へと組み立て直された。振り返ると顔の無い警官たちがこっちに向って今にも駆け出そうとしている。

 心臓が気の抜けた音を立てて動き出した。月は半分ほど欠けている。月が欠けている時というのはどちらが上弦でどちらが下弦だっただろうか? けれど僕はまだ、とろとろと淡い月が及ぼす護りの力を感じていた。

 ふと気がつくと、オレンジの光のヴェールの向こうに建物の入り口が見え、その深い空間が僕の意識をひきずった。みなもに浮かぶ月が、そこにうつり込んでいるように見える。上村の言うことは、今までいつも最も善いやりかただった。

 警官が飛び跳ねて走り出したようだったが、僕にはもう関わりのないことだ。僕はこの銀円の女神に従おうと決めた。僕は重量感の抜けたからだでふわふわと地表を漂い、ぷかりと流転した。




 白い服を、というより白い布を纏った女性が立っている。

 僕はさっきより深いところに沈んだようだった。空気か液体か、あるいはなにかのエネルギーを蓄えた大きな大きな泡が、ゆっくりと昇っていくのが目に入った。何もかもがゆるやかで、ぬるくて、あまい。彼女が歩くと衣擦れの音がした。

「よく来ましたね」

 そう言って微笑んだ。彼女は手で指し示して、僕に座るよう促した。薄明るいところに、木で出来た背の高い椅子があるのが見えた。僕はそののっぽの椅子に背を丸めて腰掛けた。

「ここまで来れば、あなたを追う者はやってきません」

 僕もすこし、疲れ気味だったが微笑んだ。

「もう心配はいりません。安心してください。これをどうぞ」

 彼女は銀色のコップを持っていた。僕は、差し出されたそれを受け取った。受け取る時に触れた彼女の指は、柔らかくて温かく、見上げると彼女は微笑んでいた。コップの中身はとろとろとしたミルクのようなものだった。顔を上げると女性はまた微笑んだ。微笑むことが彼女であることらしい。

「それを飲むと落ち着きますよ」

 乳白色のさらさらした霧に、優しく包まれた。




 どこかそれはホテルの食堂のような場所だった。窓の外の世界はひどく吹雪いていた。けれどホテルの食堂という強固な枠組みの内側の僕たちは、安全で快適であることを保障されている。周囲のテーブルで、幸福そうな人たちと不幸そうな人たちとそのどちらにも属さない人たちとが、がやがやと雑多な噪音を発していた。これは前回か、あるいは前々回か、上村と会った時のことだと思う。

 上村は何か肉を食べながら、左手をくるくるさせて、話した。

「つまりな、ビジネスと知的好奇心の充足が両立できるんなら、両立させたいだろう」

 上村という人間を知っている僕からすれば、彼の今のスーツ姿は彼の人格に符合しない。上村は大学生になり社会人になって、変わっているのは間違いないのだが、僕からすればそれは『成長』というより『向上』とか『修整』であって、本質的に変化しているようには思えない。

「まあ、確かにそうだな」

 上村の食べている肉がうまそうだ。あるいは上村が肉を食べているのはうまそうだ。どちらかというと後者だろうか。

「だから俺も、頃合いを見て今の会社は出ていくつもりだ。まあ施設とかデータ面で今のうちに利用させてもらうがね。岡本、食わないのか?」

「あ、ああ、うん」

 上村に言われたので、慌てて一口食べた。口の中に食べ物が入っている。だからだろうか、僕のかわりに女性が上村に質問する。

「けれど上村さん、会社はあなたをすんなりと辞めさせてくれるのでしょうか? あなたはなかなか活躍しているそうですし」

 上村は女性の方を向いて、左手を今度はゆっくりウェーブさせながら答えた。

「確かにそうなんですよね。けれどまあ、退職願なんて面倒なプロセスは踏まずに出ていこうと思っていますから」

 にっこりして、上村はこういうとき愛想が良い。口の中にもう食べ物は入っていない。

「でもそれ、ヤバいんじゃないのか。追われたりとか」

 産業スパイ扱いにされて追われる可能性は十分ある。僕の保護者役も心配そうにうなずいた。

「それはそれで、俺の門出が目だっていいんじゃないかね」

 上村は僕たち二人を交互に見てにやにや笑って、肉を口に入れた。窓の外はまだ鮮烈に吹雪いているが、ここは温暖である。


 上村は変わったやつだった。

 僕だって十分変わっているのだとは思うが、上村と一緒にいるとそうは思えなかった。

 ともかく上村はまず天才だと思う。単純にコンピューターに関することだけではなく、なんというか、やる気になったことに対してこの男は無限に能力を引き出せるのだ。少なくとも僕にはそう見えた。たまたまテクノロジーの分野だった、という風に思えるのだ。あるいは芸術やスポーツであっても良かった、という風に。想像するのは極端に難しいけれど。

 加えて、僕を除いた学校のクラスメイトたちとほとんど一切の交遊を持たないくせに、妙に一目置かれていた。よくわからないが、なんだかカリスマ的な要素があるのだった。彼は他人に興味を持っていなかったが、もし話しかけられれば愛想は良かったから、嫌われもしかった。

 世の中には、ある種、自分の中で完成している人間、というのがいるのだ。そう、上村は完成された人間だった。それは周囲から摂取されるべき理想像だったのだ。

 僕は、上村にはもちろん及ばないが、テクノロジーの分野ではそれなりの能力を持っていたと思っている。高校生としては、秀でていた、位のことは言えると思う。けれど僕の能力と上村の能力は、その絶対量以前に、根本的に種類が違う物だったのだ。僕たちは根本的に違う構造をしている人間だったのだ。


 僕と上村は二人で椅子に座って向かい合っていた。カーテンに西日がギラギラ射している。蝉の声が聞こえる。ツクツクボウシ、ツクツクボウシ。

 僕と上村は二人とも高校生で、ここは上村家の上村の部屋だ。

 上村家は僕の想像通り、それなりに金のある家柄のようで、家というより、その外観は屋敷に近かった。まあ、貧乏な家庭では息子をあんな高校にはやれないだろう。また面白いことに、外から見るとこの大きな屋敷は和風な外観、というか古風な日本家屋に見えるのだが、実際、中には和室以外に洋室が存在し、建物全体がきちんとシステム構築されているようだった。この部屋もそうで、床はフローリングの洋室。ベッドがあり、机があり、棚には色々とユニットやコンピューターデバイスがおいてあり、壁には高価なフィルムディスプレイが三枚も取り付けてある。上村の個室は、僕のよりふた周りほど広い。

 上村はくるくる回るように建物の構造を説明しながら、廊下を歩いて自分の部屋へ僕を連れてきた。部屋に入ると自分の財産について語った。

「このフィルムディスプレイは良いだろ。可浮型で、この貼り方で三枚付けると、自分を囲める。不思議の国へご招待」

「それからこれなんかも面白い。まああんまり使ってないけど、スピードボードの一種かね、昔、貰ってきたんだけど……」

「そしてこれがとっておき、この箱には一番の宝が入ってる。さあ岡本、これはなかなか見れないぞ。俺の親友から譲り受けたものだ。ほれ、火星の石」

 そんな感じの、要するにただの自慢だった。上村が色々と動き回るのを見ているのは楽しかったし、上村が僕の肩をぽんぽん叩くのも悪くなかったが、火星の石はなんだか気に入らなかった。邪悪だ。

 それが一通り済むと、僕らはそもそもの目的であった『データ転送における微視的なタイムワープの可能性』の調査について検討した。それも終わってしまうと、僕らは何となく無言になった。


 僕は、さっき上村のお姉さんが持ってきてくれた冷たい麦茶を飲んだ。氷でよく冷えていて、歯に心地よく突き刺さる。西日がカーテンを突き通してきてまぶしい。僕は黙っていた。二人ともじっとしている。三人目の到着を待つ。

 上村が、真っ黒の瞳をした眼をくるりと動かして、じっと僕を見た。左からオレンジの波を浴びながら、今までこの表情は見たことがあったろうかと考える。一度か二度だけあったような気もするし、初めて見る気もする。しかしそもそもいつから起算して初めてとか一度か二度とか数えるのだろうか。いつの間にか、鳴いている蝉の種類が変わっている。僕より上村の方が少し身長が低いことに今更気づいた。真剣なのか、真剣な顔をして笑っているのか、それは微笑なのか、あるいは嘲笑なのか、僕は急に、そら恐ろしくなる。僕は火星の石を、指の関節が白くなるほど握りしめる。

「なあ岡本、そろそろその石、返してくれないか?」




 三月の朝の光が流れ落ちながらゆったりしたカーブを作りだし、別の青白いうねりに揺れている。ここは夢の浅瀬。

「それで、上村さんは行ってしまったのですね」

 青いクラゲのような光が水面を漂っている。さっきから、いつもとは別の五感で漂っている。それが当然であることには、さすがに薄々気づいていた。だからといってどうにもしようがない。

「ええ、行ってしまいました」

 微笑みのせせらぎのようなものを感じる。静寂の湖で、このふわふわは心地がいい。

「そうですか。そしてあなたは、彼がどこに行ったのか、しらない」

「はい、そうです」

「あなたは彼に詳しいことを尋ねなかったのですね」

「はい」

「あなたは知りたかったけれど尋ねなかったのですね」

「……はい」

「それはなぜか、質問しても良いですか?」

「……僕は彼と一緒にいることで彼のもつ完全性の環の一端を持ちたかった。けれども結局は、彼の完全性は完全に完璧に完結した完全性であって、環は閉じているんです」

 すこし女性の姿が見えた。銀色の衣をきらめかせ、そこから冷たくて心地よいそよ風が降りてくるようだった。僕は相変わらず緩慢な静かの海に漂っている。月の青白い光は海の底にも遍くもたらされる。

「僕もあなたに質問しても良いでしょうか?」

 女の人はまた悲しげに微笑んだ。その姿が波にゆれる。

「ええ、かまいません」

「あなたは少し、上村のお姉さんに似ている気がするのですが」

 上村のお姉さんは少し困ったように首を傾げて、僕を見つめた。

「間違っているとまでは、言えないかもしれませんね」

 そう言って彼女は、壁に手をやった。空間の照明が落ち、彼女もだらんと崩れ落ちた。清らかな川は濁流に変わり、境界としての凶暴性をあらわにし、僕の眼に血がにじむ。




 意識が急激に上昇して覚醒した。

 冷徹なスチールデスクに両腕をついていた僕は体を引き起こし、体中の関節と脳髄の奥に刺傷的な痛みを感じた。

 素っ気ない金属製の椅子に座って、同じく傲慢な金属製の机に向っている。完璧に真っ白な照明が非常に高い金属音を発している気がする。壁のユニットがカチリと音を立てた。

 部屋はかなり狭い。窓も無い。一つだけある扉が無音のうちに開いて、女性が入ってきた。立ったまま、話す。感情はなかなか感じられない。僕の頭の半分はすべてを理解し、もう半分はまだ深みに沈んでいた。

「捜査協力、ありがとうございました」

 ……そうだ、上村。上村はどこへ。ひりひり痛む腕にはもうリストユニットを付けていないし、どうやらこの部屋には上村はいない。

 上村は遠くへ行ってしまった。

「あなたの確保直前の通信記録の内容と、あなたの協力から得られた情報から判断するに、これ以上あなたを保護しておく理由はありません」

 僕は女性の顔をよく見てみた。虹彩が銀色でわずかにすぼんでいる。彼女は生身の人間だろうか。

「上の者が間もなく決定いたしますので、それまでもうしばらくここでお待ちください。後で捜査協力内容明細と、聴取に関する証明書類をお持ちします。お勤めの会社の方には既にコピーを転送しておきましたので、本日の欠勤については問題ありません」

 了解を求めるように彼女は僕の目をじっと見てきた。抜糸じみた頭痛。

「……ご気分が優れないようでしたら、何か飲み物をお持ちしましょうか?」

 事務的な感じで彼女は言った。

 開けっ放しのドアの外の廊下を、せわしなく、湿った足音が通り過ぎて行く。今、何時くらいだろう。眼を閉じてゆっくり息を吸う。

「いえ、さっきもらいました、もういいです」

 ひどくかすれた自分の声が、まだこの世界になじまない。女性は僕の言うことを無視して、少し考えるような表情をする。

「ご家族の方に連絡して迎えにきていただくようにお願いしましょうか?」

 僕も少し考える。すこしあたまがかるくなる。きっと外の天気はいいだろう。秋の寒くて温かい陽気に、鳥が鳴いていることだろう。

「いえ、それより、少し外の空気が吸いたいですね」






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 前前ブログ3周年記念(2008年11月)で書いたもの。