『悪霊』 ドストエフスキー

上下巻それぞれ700ページ近い。長かった。岩波文庫のくせに700円もするんですからね! いや、買ってないですけれど。図書館活用してます。

物語の内容以前にまず一番印象深かったのは、語り手の半透明性です。一応語り手(新聞記者らしいですね)が存在して、一人称部分で語られるところとか、事件に直接関与するところがあったりします。一方、三人称視点で、神の視点のごとく語る部分もあったり、うーんわけわからん。「私は必死にスチェパン氏の元に走った」とか「私はピョートルに殴りかからん勢いで……」みたいな、明らかに語り手の存在感が強調される文章がある一方で、「スタヴローギンはそのまま数時間のあいだ、一人で想念に沈んでいた」みたいな、どう考えても神の視点な文章もある。(ここに書いたのはうろ覚えによる引用です)
ともかく、そのとらんするーせんとな語り手が印象的でした。

話の内容もまた壮大で、各人物の動かし方にドストエフスキー的なうまさがあって、面白かったです。ただ、無駄に殺しすぎかなぁってのと、若干構成の緻密さが劣るという点で、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』には、自分の中で及びませんでした。

CP対称性の破れ

 この束の間の待ち時間、「CP対称性の破れ」について、お二人さんにお教えしよう!


 ここに映画館の椅子。映画館の椅子、ひじ掛けに飲み物とか置けるホルダーあるね。このホルダーが今夜の主役。ホルダーに置くものは、コーラ(映画館にぴったりな飲み物はコーラ! オレンジジュースは軟弱な選択だ、ウーロン茶は廃絶されるべきだ!)、あるいは一番ちっこいポップコーン(キャラメルも認許!)。映画館の椅子をぐるりと環状に配し、円の内側向きにひとびとを座らせる。彼らは手に手にコーラあるいはポップコーンを揚げる。革命の民は鋤と鍬を手にする!


 だが。自らの第二魂であるColaあるいはPopcornを、左右どちらのホルダーにおけばいいのか、彼らには、わから、ない。

 馬手のホルダーにおけば、右の人は憤慨するやもしれず、かといって弓手のホルダーにおくのも躊躇ってしまう。しかし(そう、哀れな観客はこう考えて慄く!)、左右両方のホルダーが左右両方の金城の城主に押さえられれば、自分はホルダーを使えぬのだ、ああもはや! これはまさに我が国に相応しい喜悲劇だ!

 そういうわけで。映画館の椅子のホルダーは、左右どちらにも属さなくって。しっかり対称性を保持してて。


 だが。円環の一点で、一人の娘が動く。

 美妙に滑る優しい黒髪を、風の滲む左手でやわらかくなでつけながら(これぞ我らの希求せしもの!)、右手に持ったPを、そのまま右のホルダーに差し込む! それを見た彼女の右の座席の英国風紳士は、しめたとばかりCを右のホルダーへ滑り込ます! その右の夫人も、微笑と共にPを右のホルダーへ!

 ほらほらおわかりか!? CP対称性は破られたのだ、この連鎖で! ホルダーの所有権がどちら側に属するか、円環の全員に言い渡されたのだこの刹那! 草原を駆けくだる炎! まさに!




「ごめん、ちょっととり乱した」

 私は座席にずるりずるりと沈みこんで一息つく。上映時刻まであと少し。

「ぶつぶつうるさいぞ」右に座る五つ上の姉がCを私の馬手のホルダーに置く。

「理系って自分の意味不明でキモい例え話に酔うよね」左に座る三つ上の姉がPを私の弓手のホルダーに置く。

 この圧倒的な不如意を如何せん!

 ちょっとふくれてみる。が無視される。照明がおちはじめ。私は自分の軟弱な選択を膝の上で支え。闇に乗じてお姉ちゃん達のCとPを勝手に頂くことに決める。繰り返す、これは、反乱である。


* * *


 短編第81期(2009年6月)投稿。

『夢見る脳』 J・アラン・ホブソン

夢見のための一つのおもしろい読み物になりますね。最初の方はばーっと読み飛ばしましたが、後半すごく面白かったです。

夢の中での運動や感覚に関する考察や、夢の奇怪さの分析が面白い。ただ、ちょっと厳密性は欠いている気がします(一般性を持っているとは言えないというか)。

『貴族の巣』 ツルゲーネフ 

構成がしっかりしていて、無駄なものが無いのに、それでいて重厚。

また、この余計者(лишний человек)スタイルは、読んでいてとても面白いです。というか、余計者の主人公が、以後の日本文学に影響与えてるんだなぁってのがなんとなくわかります。ロシアは先を行っていたんですね。