ロンドンで表紙買いした本で死後を想う『Sum: Forty Tales from the Afterlives』

 David Eagleman『Sum: Forty Tales from the Afterlives』の感想です。

非常口のドアから光が漏れている

はい、ロンドンの本屋で表紙買いしたっていうちょっとかっこいい感じのエピソードが欲しくて買ったという不純な動機が丸出しです。というか、それを言っただけでこの記事の目的の8割が達されました。ドヤ。でもなんかせっかくだしかっこいい感じのことがしたかったんです。ちゃんと海外旅行したのはじめてだったし……。居心地が良い本屋さんで(ソファなんかあったりして)、立ち読みしつつうろうろしていて見つけたのがこの本でした。英語だと日本語みたいに高精度な流し読みができないので、表紙買いはある意味必然です。そうでもない。まあともかく、とりあえず旅行中に買ったという事実が重要だ、などと思いながら買った(でももともとアメリカの本だったからロンドンで買った意味特になかった)のですが、これが読んでみると面白い。当たりを引きました。この記事の目的の残り2割は、布教です。なお後で調べたらイギリスじゃなくてアメリカの本でした。

表紙には、暗闇の中にドアが一つ、描かれています。ドアの上には非常口マーク。ドアはかすかに開いており、光が漏れている。Amazonの画像では少しわかりにくいのですが、この表紙、ドアの隙間部分は実際にカバーの紙が切り抜かれており、向こう側の表紙の折り返し部分が見えるようになっています。本を開きかけると表紙が少しずれるので、まるでこの非常口が開きかけているかのような印象を受けます。もうこの時点で気に入ってしまいました。

裏返してみます。裏表紙側にも、非常口から漏れ出る光の筋が続いています。しかしそれだけではありません。なにか、動物の影のようなものが見えます。気になる人は書店で手にとって確かめましょう。日本のそのへんの書店にあるかは知りませんが。これもまたかわいくて、ますます気に入りました。

この非常口はどこに通じているのでしょう。手にとって気に入ったはいいのですが、本の内容はよくわかりません。Sumってなんだ? 合計?

 

40通りの死後の世界

こういうのはたいてい、サブタイトルの方が内容を正しく説明してくれます。Forty tales from the afterlives。この本には、死後の世界についての40編の超短編(ショート・ショートと言っていいだろうか)が収められています。こういうと、一つの死後の世界についていろんな場面を描いているのかと思われるでしょうが、そうではありません。作者David Eaglemanは、40通りの異なる死後の世界を描き出しています。それらは一つ一つ異なるもので、設定が共有されていたりはしません。この本はいわば、「死後の世界ってどうなってるの?」「死んだらどうなるの?」という問いに対する、ブレイン・ストーミングのようなものなのです。

表題作Sumは、その第1編。なんと2ページしかありません。一瞬で立ち読みできてしまいます。『死後の世界では、あなたはすべてを追体験する。ただし、すべての出来事はシャッフルされ、新たな順序に組み直される。同じ性質を持つ瞬間が、すべてひとまとまりにされるのだ』。人は一生のうちには、様々に時間を使いますし、毎日色々な要素をバラバラに組み合わせて生きていくのですが、死後の世界ではそれらを『同じ物をひとまとめにして』追体験するというのです。家の前の通りを2ヶ月運転し、7ヶ月セックスをする。30年間眠り続け、5ヶ月トイレに座って雑誌をめくる。27時間の間あらゆる痛みを感じ続ける代わりに、その後は一切痛みを感じない。6日間爪を切り続け、15ヶ月なくしてしまったものを探し続ける。18ヶ月列に並ぶ。2年間、バスの窓から外を眺めて、空港で佇んで、ひたすら退屈する。1年本を読む。目は痛むし、身体中が痒い。何故かといえばあなたはまだシャワーを浴びていないからだ。シャワーはあとで、200日浴びることになる。死んだらどうなるんだろう、と2週間考える。1分間、自分が落ちていくのを感じる。77時間混乱する。誰かの名前を忘れてしまった、と1時間考える。3週間自分の誤りを知る。2日嘘をついて、3週間信号を待つ。7時間嘔吐し、14分間の純粋な喜びを経験する。3ヶ月洗濯をして、15時間サインし続ける……。あるときあなたは4分間、人生の出来事をシャッフルしたらどうなるだろう、と想像に耽る。その想像は、あなたの生前の世界とどこか似ている。人生の経験が細切れにされ、その一瞬一瞬の経験から経験へ、次々と飛び移っていく。まるで子供が熱い砂の上を跳ねていくように……。

途中省略しましたが、これくらいコンパクトなお話です。こういう死後の可能性の提示が40編。他の話で気に入ったものも幾つか紹介すると……

Circle of Friendsでは、この世界とほとんど同じように見える死後の世界が広がります。しかし、実はここにはあなたが覚えている人しかいないのです。親戚、友人、小学校の教師、エレベーターで目があった人、ともかく生前の記憶に含まれた人しかここには存在しません。

Metamorphosisでは、死は3つあるとされます。肉体が機能を停止したとき、埋葬されたとき、そして、あなたの名前が最後に口に出されたとき。2つ目の死のあと、3つ目の死の呼び出しが掛かるまで、あなたはロビーで待っていなければなりません。

Death Switchでは、死後の世界は無いけれど、私たちの死後に私たちのふりをしてくれるコンピュータアルゴリズムが紹介されます。このプログラムをセットしておくと、私たちが死んでも、送られてきたメールに対してプログラムが私たちのふりをして返信してくれるのです。この世の中では、誰が生きていて誰が死んでいるのかよくわからないし、Death Switch同士がメールをやり取りしていることもあるし、やがて生きている人間よりDeath Switchの方が多くなってしまいます。

 

可能性と想像力の文学

この本、ジャンルとしてはどういうふうになるんでしょうか。wikipediaによれば、この作品は従来の小説のカテゴリに分けることは難しく、”philosofiction”だとか”experimental novel”と呼ばれているのだそうです。サイエンス・フィクションの定義というか性質として「世界設定を語ることを通じて何かを語る」というものを採用するとすれば、この作品はSFの一種にはなります。SFで、一つの世界設定のもとにいろんな話をする、逆に言えば多数の短編を通して一つの世界を描く小説というのはままあるかと思います(たとえば円城塔『Self‐Reference ENGINE』)。ただこの作品の場合は、多数の短編を並べて一つの世界を描いているのではありません。ここには40通りの死後の世界、40通りの死後についての可能性が並べられていて、それぞれは相互に関係せず、両立もしないからです。

僕はこの本は、死後に関する人間の想像力について書いた本ではないかと思っています。死後について考えるとこれだけ可能性を挙げられるわけです。また読んだ私たちは更に想像が広がります。この中のどれが一番いいだろうか、あるいはこれ以外にこういう死後の世界も面白いのではないだろうか。

ちなみに作者のDavid Eaglemanの本業は脳神経学者です。おそらく、死後の世界が本当にあるとは思っていません。(ただ、高いところから落ちて死の恐怖を感じたときの時間感覚の研究をしてたりはするようです) それでこんなものを書いてしまうというのは、面白い人です。

 

面白そう! だけど……

この本に興味を持っても、英語が読めないからな、と思ってしまう人もいると思います。僕が周囲に薦めてみても、英語はちょっと、と読んでもらえないケースがありました。

しかし、この本の英語は平易な方だと思います。淡々と死後の世界設定を述べるものが多いので、それほど難しい表現は出て来ません。そしてなにより、40編のそれぞれに独立な超短編から成るわけですから、多少良く分からない部分があったとしても、全体を通読するのに大きな障害になりません。これは凄く重要なことだと思います。

高校生の頃、古文の勉強も兼ねて、と思って宇治拾遺物語を読んだことがあります。注釈だけあって現代語訳はついていないものを選びました。宇治拾遺物語であれば短く細切れになっているので、読んでいてよくわからないところにぶち当たっても、適当に流してしまえばいいのです。これがもし源氏物語だったらそうはいきません。適当に流し読みした部分が、のちの展開の伏線だったりしたら困るからです。短篇集ならそういうことはありません。しばらくページをめくれば次の話になって、リセットされます。読書嫌いの子供でも星新一なら読めたりするのも、同じ理由ではという気がします。

まあ、そうはいっても英語なんて読みとうないという方には! なんと邦訳版もあります! 実は、この記事を書いている途中で検索して発見しました。翻訳されていたとは……。僕は読んでいないので翻訳がどんな感じなのかはわかりません。

ただ、この表紙ではどう考えても表紙買いはされないでしょう……。そこは残念ですね。

 

ところで、冒頭で紹介しているのはUK版の表紙です。そもそものアメリカ版はこんな感じ。

これも悪くないですね。他にも各国のバージョンを、ここで見ることができます。こうして並べると、やっぱり日本のはちょっと……。

コーヒーを飲みながら読みたい 『日本カフェ興亡記』

 高井尚之『日本カフェ興亡記』の感想です。

可否茶館からドトール・スタバまで

日本のカフェ・喫茶店業界の現在、過去、未来についてまとめられている本です。筆者は経営コンサルタントで、多くのカフェ・喫茶店の経営戦略について分析しています。一方で、「企業や店側のコメントで完結するのではなく、生活者視点で見ることで読者の参考になれば」とも述べ、利用者側の視点も大切にしています。筆者は「利用者側の視点も」という書き方をしていますが、むしろ僕にとっては企業が考えていることや利益を生み出すしくみのほうが面白い部分がありました。どちらにせよ、そのあたりのバランス感覚が非常に良い本です。

「手軽さのドトールvs.楽しさのスタバ」と題された第1章では、業界で双璧をなすこの2社について、経営戦略やブランドの付加価値、歴史などを紐解いていきます。第3章では日本におけるコーヒーの歴史、喫茶店の歴史を振り返ります。その後も現代型のセルフカフェと昔ながらのフルサービスの喫茶店を比較したり、多様性を重視する総合型か、絞り込んだテーマ型か、という切り口で店を見てみたり。第6章ではチルドカップコーヒー飲料や、カルディといったコーヒー豆小売店にまで話題が展開します。まさに日本のカフェとその周辺を網羅する本と言えるでしょう。といっても、最近ではメイドカフェとか猫喫茶とか、カフェ・喫茶の意味するところも無尽蔵に広がっている感があり、そういえば一時期は出会い喫茶なんてのもありましたし(今もあるのか?)、この業界はともかく裾野が広い。さすがにそのあたりはあまり載っていませんが(漫画喫茶とネットカフェについては記述があります)、カフェ・喫茶を利用する人なら誰もが楽しく読める本だと思います。

 

その一杯の選択

僕自身はドトールvs.スタバではドトール派です。ドトールのミルクレープが好きだからです。ケーキセット500円は神と言わざるを得ません。むしろミルクレープ以外あんまり食べません。もうドトールはミルクレープに改名していいと思います。昔はドトールは煙草臭くて入れなかったのですが、最近は分煙も進んできました。個人的にはせめて喫煙エリアを自動ドアで密閉するまではやってほしいのですが、まあ商売なのでそうもいかないのでしょう。ドトール派といってもスタバにも行きますし、他にもセルフカフェだとタリーズによく行きますが、そこでももっぱら甘いモノを飲んでいるように思います。また、本書の分類によるところの「高級喫茶店」にも、日常的にとは言いませんがたまに行きます。本書で紹介されていたところだとルノアールは比較的よく利用しますし、椿屋珈琲店やその系列の面影屋珈琲店は大正ロマンがあって好きです。制服かわいいですよね。それくらいの価格帯の店や、もう少し小規模チェーンの店などでは、もっぱらコーヒーを飲みます。スタバやドトールやタリーズでカフェモカや抹茶ラテやハニーミルクラテを飲んで血糖値を高めたいというよりも、純粋にコーヒーを楽しみたいと思った時には、そういう店に行くのです。

と、いうような、ふだんは自分のあまり意識していない一消費者としての行動が、筆者のような経営コンサルタントからどう見えているのか、あるいはカフェ業界の経営者たちからはどう見えているのか、この本を読んで考えさせられました。カフェ・喫茶店をめぐる消費者の意識について、本書には「現代の消費者意識は多様化しており、移り気」という記述があります。単に多様な人々がいる、というだけでなく、同じ人が場面場面によってまったく違う消費の傾向を見せるのだというのです。カフェや喫茶店で言えば、ビジネスで使うか、プライベートで使うかは大きな違いでしょうし、同じプライベートでも、ちょっと一息つきたいのか、数時間休憩してしっかりリラックスしたいのか、予定と予定の間の時間潰しなのか、友人や恋人とおしゃべりを楽しみたいのか、といった目的でも店の選び方は全く異なってくるでしょう。店側はそういう消費者の目的を考えて店のコンセプトを検討し、繰り返し来店してもらえる店作りに努めます。また消費者の目的によっては、本書でも扱われたチルドカップコーヒー飲料や、豆を購入して自宅でコーヒーを楽しむ習慣といったものが、カフェ・喫茶店に競合することになるのだと思います。カフェだけを見ていては、カフェのことはわからないのかも知れません。

異国に飛び込んでみたくなる 『フィンランド語は猫の言葉』

 稲垣美晴『フィンランド語は猫の言葉』の感想です。

渡芬、トフン。なんとかぐわしいこの響き!

芸大の学生だった筆者の稲垣美晴さんは、フィンランドの美術史で卒論を書くために1970年代末にフィンランドへ留学。70年代というと、当然ながらインターネットなんて無いし、そもそもフィンランドなどという国自体が日本であまり知られていません。日本語で書かれたフィンランド語の学習書は1冊しか出版されていなかったとか。確かに今でこそフィンランドが北欧の国であることくらいは一般に知られていますし、ムーミンのイメージくらいはありますが、北欧三国の位置関係がわからん、なんていうのはしばしばネタにされますし、北欧三国とそれらの首都の組み合わせに至っては正しく答えられない人もまだまだ多そうです。(まあエイラのイメージくらいなら……)

この本は、そんな今であれば無謀と言われてしまいそうな留学をした筆者のエッセイです。タイトルにもある通り、フィンランド語という言語にスポットをあてている部分もありますが、基本的には紀行文、留学体験記として読めるものです。フィンランドという土地や言語についてほとんど知らない状態から知識が得られ、また筆者の強い精神力とユーモアに感心させられて、とても楽しく読みました。

 

異文化で素直に努力する

学生寮の隣人がタルヤ・サルコヤルヴィとヴェサ・リンタマキでその名前が既に覚えられないのに、KHTがケスクスカウッパカマリン・ヒュヴァクシュマ・ティリンタルカスタヤの略だということを暗記して初めての試験に臨んだり、授業で課題を始めようにも黒板が解読できなかったりと、筆者は相当苦労しながら勉強をしたようです。本人が「絶望的」と書いている通り、おそらく塞ぎこむこともあったのでしょうが、ユーモラスな語り口からは暗い様子は全く伝わって来ません。

頭痛がするほど寒いフィンランドで、「体感でマイナス何度か当てる」という遊びを開発し、「息を吸った時の鼻の感じがこういうときはマイナス十五度」、だなんて僕たちからは信じられない世界です。マイナス三十度に達すると友人に「命がけで外を歩いています」と手紙を書いたりなど、相当な精神力を感じさせます。一方で、じゃがいも(「フィンランドで一番おいしいものは?」と聞かれるとフィンランド人はじゃがいもと答えるらしい。曰く「じゃがいもが多ければ多いほど、スープはおいしい」)に対する感情を題材に海外への適応の時間的経過を分析していたりと、一般化した異文化適応のプロセスを考えるのにも興味深い本になっています。自分はそういう環境に長期間置かれたことは無いけれども、もしそういう場に置かれたら自分はどうなるのだろうか、と考えてしまいます。留学の予定はありませんが……。

あとがきで筆者は、かつての自分が勉強を続けられた理由について、フィンランドの環境や人々に素直さを引き出してもらえたからだと書いています。試験に失敗してもひねくれてしまうことなく、「また努力して、次もがんばろう。だって、これは私にとって大事なことなのだから」と思えたから、がんばれたのだといいます。こう言われると、まさにその通りと思えてきます。おそらく「素直に努力するのが大切です」とだけ言われるとなんとも思わない、むしろ胡散臭い正論いいやがって、となるのですが、このエッセイを読み終えたあとの「あとがき」であれば率直に納得できるのです。

 

フィンランド語について解説をしている部分もあります。まず単語が長い。そして文法が日本人からすると複雑で、格が15もある。名詞も格変化する。否定にもいくつも種類があるので、英語の”No”みたいないつでも使えるものがない……。ちょっと勉強しようとは思えませんね。けれど筆者は「ゲームのように楽しい」と言います。そしてタイトルにもある通り、筆者はフィンランド語を猫の言葉だと言います。

フィンランド人はニーン、ニーンと言うけれど、私には猫の言葉に聞こえるから。(注 ニーン、ニーンとは、フィンランド語で相槌を打つときに言う言葉だが、話している時に相手がただ「ニーン、ニーン、ニーン、ニーン」と言うと、私はなんだか猫と話しているような気がしてくる。あるとき、電話をかけたら相手がいきなり「ニーン」と出てきた。これには驚いた。一瞬、猫が電話に出てきたかと思った。やっぱりフィンランド語は猫の言葉なのだ)

 

ニーン、ニーンが聞きたくて

こうなると気になってくるので、僕も生のフィンランド語を聞いてみることにしました。というのは順序が逆転していて、本当はフィンランド語を聞くチャンスが巡ってきたためにこの本を手にとったのでした。先日、フィンランド航空を利用して、ヘルシンキ空港に立ち寄る機会があり、入国して観光する時間はないものの、生フィンランド語に触れる機会はあるはず、と思ったのです。

成田・ヘルシンキ便の機内アナウンスは、フィンランド語、日本語、英語です。しかしフィンランド語、何を言っているかわからない! あたりまえです。母音が多くて丸っこい。アクセントが常に語頭なので(というのは知識として知っているから判ったのであって音だけ聞いたらわからなかっただろうけど)平らな感じがする。本当に、猫が(といっても可愛らしくて甲高い声の仔猫じゃなくて、まるまる大きな感じの猫が)喋っている様子をイメージできなくもない。一つだけ聞き取れた単語は、一番最後のKiitos(ありがとう)。

フィンランド航空のCAにしても、ヘルシンキ空港で働く人々にしても、基本的に英語で話しているので、別にフィンランド語が一言もわからなくても一切問題はありません。しかしアナウンスを聞いていると全く何を言っているかわからないけれど耳に心地いい言葉が聞こえるので楽しくなってきます。母音が多く、日本人は比較的フィンランド語の音に馴染みやすいので、フィンランド語を聞くとなんだかデタラメな言葉に聞こえる、と筆者が書いていたけれど、まさにそんな感じ。ただ英語にもフィン訛りというのはあるようで、空港の売店の店員のお姉さんの言葉を聞いているとThreeがTreeになっていたりしました。まあ、日本人英語が人のこといえませんけど。支払いを終えてThank youと言われたのでKiitosと返してみたら、笑顔でKiitos!と言ってもらえました。やったね! ニーン、を聞くチャンスはなかったけれど、フィンランド語は猫の言葉でした。よく考えると相槌の言葉なんだったら、こっちがフィンランド語である程度の文章を喋らないと相手は使ってくれませんよね……。フィンランド語を勉強することは無いでしょうが、いつかちゃんと観光してみたいと思います。