大逆循環紙芝居 卒業証書授与式

(川が流れ始め、皆が立ち上がる)


「マルクスは死んだ」

 僕も知っている。

「マルクスは戻らない」

 それも知っている。

「だから俺がマルクスになる」

 それも。


(沈黙。一人目の生徒の名前が呼ばれる)


 冷蔵庫を開けたり閉めたりしていた。鏡に向かってお前は誰だと問う。精神も肉体も腐敗しない。青空に電線が浮かぶ。時々安いウイスキィを買う。優しくそのビンを撫でる。慈しむようにも見える。棺の中の死者の頬を撫でる。

 電話ボックスに風は吹かない。信号機は月のない夜にも休まない。追憶の森にもう逃げこまない。抽象化せよと教師は言う。抽象のびいどろは美しい。彼は時に反抗的だ。海辺に体を横たえて。自分の肉体をゆっくりカノンコードに乗せ。

 Cのコードは水面に漂わせ。Gのコードは笑顔を装う。肉体を抽象化していく。三度目のEm。黙って円を描いた。冷蔵庫の底の手紙。あの日に忘れた超能力。抱き抱える微かな微熱。

 宇宙最後の少年少女は素粒子になる。涙を浮かべながら口ずさむ。手慰みに冷蔵庫の扉を開け閉め。鏡で自己の身体を抽象化する。おはよう、あなた。おはよう、おはよう。今日もまた、始まる。この坂をのぼれば教室が見える。


 落涙する銀杏。

「生徒の学ぶ権利を守れ」

 赤服の少年少女たちは笹帽子をかぶって切なく歌う。

「生徒の泣く権利を守れ」

 彼は百号館屋上から見つめていた。

「マルクスは死んだ、もうここには戻らない」


(回転する円環。反復される個別)




(繰り返し)




 葉っぱ。

 葉っぱ。

 葉っぱっぱ葉っぱ。

 葉っぱっぱ葉っぱっぱ葉っぱ。

 私を見つけてと彼女は叫ぶ。鉄橋を見上げて涙を落とす。落ちた涙がゆっくりとゆっくりと地面を染めていく。廃墟に一滴の命。


 葉っぱ。

 笹の葉っぱっぱ。

 世界の中心で葉っぱっぱ。

 春風に舞い上がる葉っぱっぱ。

 葉っぱっぱっぱっ葉っぱっぱ。

 葉っぱっぱっぱっぱ……。


(甘い沈黙。女生徒の鼻をすする音。淡いハンカチ)


「マルクスを守れ!」

「ああ桜が咲いているよ」

「マルクスを断固として葉っぱっぱ!」

「マルクスは死んでしまったよ」

「もうここには戻らない」

「葉っぱっぱ!」

「葉っぱっぱっぱっぱ!」

 永久の時空にこだまする。


 琥珀色のビンには毒薬が入っている。紙筒を持て余す少年少女。すまし顔の入道雲の先には宇宙。ひとつになった少年少女。おはよう、あなた。おはよう、おはよう。今日もまた、始まる。この坂をのぼれば教室が見える。



 * * *


 短編第100期投稿。

 短編100期おめでとうございます。

恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐくるくるしちゃうの(ことばあそびに憑かれた男)

「生まれた時から待ってたの!」

 野原で回転する君の笑いと叫び。微風も頬に吹いてきて。天を君につられて仰ぐと。永久に浮かんでいて欲しい夏の雲。

「もっとこっちにおいでよ!」

 喜びかなしみオレンジワンピース。涼しげに君はいつの間にか遠く。苦しくって僕も追いかける。

「ルーレットみたい!」

 いつか見た光景に君がしゃがみ。見上げて花を指さし報告。

「くるくるー、ってなりそう!」

 うん、と苦笑。

「うん、確かにルーレットみたいだけど、それは時計草だよ。よく見て、文字盤と針に」

「にゃっ、時計だったんだね! ねぇ時計さん、間違えてごめんねぇ、くるくるー」

「ルーレットじゃないんだよ、くるくるって。て、しかもそれ反時計回り」

「りんは進むはいやなのぉ! お兄と一緒なら何度でも繰り返すから!」

 螺旋のように時針は悲痛に丸まり。りんは急に抱きつく。苦悩に心臓がくねり草の上に転がる。

「ルーレットも時計も何でもいい、ずっと待ってた。ただずっと、お兄と二人でいられる日、ね……」

 熱。つくりごと。戸惑と焦り。りんの急に大人びた声。艶なる息。気が体中を駆けた。たまらずりんを抱きしめ。目に眩し。褥に注ぐ天の陽の光。りんのにおいが背中から満ちる草のにおいにまじると。遠くで犬の声が。

「我慢して。天から見られてるから、私の名前を呼ばないで。でないとそこで終わっちゃう」

 頷く。苦しげに震える背中を両手でさすり。りんはここにいる。ルビーの活字で心に刻む。

「無理しちゃだめ、力を抜くんだ」

 黙ってりんは僕の肩にうずめていた顔を上げる。瑠璃色の瞳の奥。くるくる時計草が反時計回り。りんと僕はくちづけて。天は見てるだろう。生まれた時から。ララバイとエレジィ。今際の歌唄。ためらいフラジャイルそっと。時は夢の中。体は現実の続き。君と僕とは愛しあう。生まれた時から待っていた。












 黄昏に溺れる寝台に横臥。画家はもうこの病室を去った。大海を知らない少女の一輪を携えた姿を描き終えて。天上までサナトリウム文学は続く。朽ちかけた扉が開かれ。レンブラントの解剖学講義。銀色の死の影を医者たちが覗き込む。






夢幻の中か。

彼は五分で一周程度さっき映像化した幻を観ています。

凄まじい病だな。

なにしろ、覚めたくないくらい幸せで辛いんですから。






 来訪者が去るのにも気付かず眠る男。鼓動は窓の外に咲く彼女へ。永遠に外の世界まで巻き込んで続く。くるくるくる、一輪の時計草。



 * * *


 短編第95期投稿。1000文字。

時空蕎麦

 もとはおつゆとめんは別。めんどくさくておつゆをぶっかけた。おつゆをぶっかけた!? まあそこは深追いしない。ぶっかけたらけっこういけた。てっとりばやい。江戸でブレイク。かけそばである。


「かけそばおまち」

 男は樹脂製の箸を一膳、箸立てから抜く。緋色の七味の瓶を器の上でふる。店内に鳴響するだしの香りの中、七味の風が微かに鼻腔をくすぐる。

 手を合わす。いただきます。無言の祈り。愛と豊穣への感謝。震える手で箸を構える。麺をひとつかみ。艶やかなおもてには小口に断たれた葱が付き従い、麺は細目。それこそ蕎麦の真髄であろう、饂飩のように太い蕎麦など、と男は思う。誇り高き香り高きつゆを潤沢に含んだそれを、彼は徐々に口元へと、運命の瞬間へと近づけていく。時間が止まる。


 私は確かに、男の唇が微かに歪むのを見た――。


 音をたて麺を一声にすする。男の口に芳醇なつゆの旨味が、腐海に落とされた聖女の涙のごとく広がる。が、それは蕎麦の甘味を殺しはしない。手を取り合いからみあって、そこに葱の抜けるような白烈の食感、立ち現れる七味の颯爽の香り、麺をかみしめ、頬がとろけて落ちダラダラと床に拡がり、つゆに甘く刺激され舌は半透明にふやけ、最早身体の輪郭も無く、蕎麦屋が神々しい霊光に満ち、響くのはただ歓喜の歌。


 男には後悔があった。彼の母親は若いうちから肺を患っていた。母親の大好物がかけそばであった。彼が中学校卒業を間近に控えたある雪の日。世界が幻惑的な白銀の寂静に満たされ、同時に幸せにも満ちたかに思えたあの日。街路の物音は皆降り積もった雪に吸いこまれ、隣を歩く母親の咳こむ声もいつもと違う響きであった、あの日。

 いかにも泣ける話風だが今のは私の勝手な妄想が挿入されただけだ。戯言を言う間にも男は芸術的作業を続けていた。すすり上げられる麺がうねりをあげ熱を帯び、男の体内で炎渦を描き昇華する。七味唐辛子が効験を顕し、額に玉汗が浮かぶ。意識まで、とうに晴明なだしつゆの快哉の叫びの中に霧消した。食を通じて男は生を確認する。刹那の生を、かみしめる。ただ、ひたすら。






 完食の歓びに幾度目かの絶頂を迎え、男は瞑目した。立ち上がると全身が軽い。胃が黄金の幸いで満たされ、身体に溜め込まれた憂鬱な瘴気が抜け、生の真実の一片がそこに残ったように感じられた。蕎麦屋の残骸から瓦礫の街へ駆け出す。笑みが浮かぶ。次の廃墟まで、走れる気がする。



 * * *


 短編第93期投稿。

小説作法(推敲前)

 部屋の隅の壁紙の剥がれた辺りから白髪の男が急に現れ、俺の休日の午後を破壊した。

「何しとんねん」

 居間でだらだらくつろいでいたら見知らぬ男が現れたのだ、仰天である。

「なんだ、神か悪魔か」

「どうでもよろしい、何してるんやて」

「何って、ただだらだら」

 実際のところ何もしていなかったのだ。男は丸メガネが飛び散らんばかりに勢い良くイライラと白髪を掻きむしった。

「なんやそれアホボケカス! あんた『俺』や、主人公や。主人公に目的意識無い小説つまらん。はよ面白うせんと」

 白髪が数本抜ける。

「いまな、いきなり登場してな、あんたの日常世界、破壊してん。やろ? 常識的な世界やったらこんなんいきなりけえへん。破壊や、破壊で始まる小説や。そしたら主人公何かしたい思えや。行動に理由と意志と感動」

 その時キッチンから妻が顔を出した。

「あらお客さん」

「客じゃない」

「お茶をお持ちしますわ」

「どうぞお構いなく」

 こいつ標準語もしゃべるのか。説教は続く。

「んでな、あんた主人公の自覚足りひんねや。こうしたい思うことないんかいな、なんも無いんやったら読者ついてけえへんで?」

 なるほど確かに俺は主人公としての自覚が足りない。でもしたいことなど。

「……若くて尻のでかい女とセックスがしたい」

 考えてみたらこれは小説。現実の倫理観から多少の逸脱は認められる、芸術。

「バックで頼む」

 そこ重要。

「なんやあるんか思ったら、あんたええ奥さんもろといてそんなこと」

「小説なんだからいいじゃないか」

「そんなん目的やのうてただの願望やん。ええけどどうする、もう字数8割過ぎてまう。こっから若くて尻でかい女出すの難しいんちゃう」

「そこを何とかするのが小説だろう」

「ゆうてもちゃんと話終わらせて、きれいにオチ付けるかまとめるかなんかせんと、小説面白くならんねんで? そやからあんたがでかい尻にパンパンやってああ気持ちよはいちゃんちゃん、おわり、ゆう訳にいかん。また言われてまうで『それで?』って」

「畜生、妻を出したのは字数の無駄……いやこの会話自体無駄」

「ほな黙ろか」


 そこで俺たち二人は黙り込み、キッチンから湯を沸かす音がゆらり流れてくるのを聞いた。


「……あかんやないか! 描写でも字数は使うんや。この小説無駄な文多すぎるわ。描写も凡庸、題材もベタベタ、構成もクズや」

「こりゃどうしようも……そうだ推敲だ! 推敲しよう! 頭冷やして書き直せ!」




































* * *


 短編第88期投稿。

夜を説く

 部屋に来てからすぐ、小夜は言いました。

「私作家になる」

 眠そうな青い瞳がきれいです。

「小説を書くの」

 既に二日という長い間、小夜は僕のアパートで暮らしています。明日を思うと恐ろしいですが、最近では考えないようにしています。未来のことを頭から追い出して、小夜に抱きしめてもらえば、僕も眠れるのです。それを覚えてから、逃げてばかりです。

 午前三時に大学で現代性交概論の講義を聞いていましたが、流星群が酷くなってきました。老教授が、もうやめにするから帰りなさいと言いました。生徒は僕一人。金平糖の降る中、歩いて家に帰ると、小夜はラップトップをひざにのせ、くちびるをキーボードに押しあてています。

「いくら打ちやすいからってそれ汚いよ」

 画面をのぞくと小説が天河のように広がっています。

「書いても書いても足りない」

 小夜は顔を上げず、またキーボードにキスの雨を降らせました。吸い寄せられるようなそのうなじから常習者特有のにおいがして、僕は驚きました。一方未完成の小説は、エクセルの画面で窮屈そうに身をくねらせています。その無数の瞳の一つと目があったような気がしてなりません。小夜の肩にかかる髪をなでました。

「邪魔しないで」

 小夜は眠りもせず書き続けました。自分のすべてを、小説で表現したいのだそうです。自分を表現しないために書く僕とは対照的で、皮肉ですね。僕はこうして文字を並べ、自分を守る壁を作ります。知られるのが怖いから。わかった顔をされたくないから。小夜は違います。自分が小説になろうとしているのです。読んでもらい、触れてもらおうとしているのです。僕は少し情けなくなりました。

 四日後部屋に戻ると、小夜は消えていました。床で、衣服とラップトップだけが月光浴をしています。砂か水くらい落ちていてもいいと思いましたが、残らず小説の文字になってしまったようです。

「書けたでしょう」

 確かに立派です。僕はジーンズや下着を脇に押しやって、Tシャツだけラップトップに着せてやりました。

「ちょっと変態っぽい」

 だって硬い筐体をそのまま抱きしめるのは気が引けたのです。ベッドにもぐりこみ、小説のふわふわした胸に顔をうずめ、その指先のぬくもりを感じながら目を閉じました。今なら少しは、僕にも良い小夜が書けるかもしれない。抱かれているとそう思えるのです。

 ああ。今夜は久しぶりに眠れそうです。あなたもそうじゃありませんか?


* * *


 短編第86期(2009年11月)投稿。

青ずきんちゃん

「こんにちは、おばあさん」




 いつも青いずきんをかぶっている青ずきんという女の子が、森の中のおばあさんの家を訪ねました。




「出かけているのかしら……?」




 ところが急に戸が開き、大きな大きな恐ろしい狼が出てきます。


「げへへ、ババアはまあまあだったが、若いムスメのデザートつき。こりゃあたまらん」


 なんということでしょう。青ずきんは驚いて転び、そこへ狼がどんどん迫ってきます。片目があらぬ方向を向き、口からはヨダレを垂らして。


「うひぃウマそうなムスメだあぁ」


 しかし、青ずきんは何とか落ち着きを取り戻し、きと結伽趺坐で座し瞑目します。すると頭にかぶった青い天鵞絨のずきんから鋭い光線があふれ出し、狼の目に直撃。たちまち狼は青ずきんの姿が見えなくなりました。


「小娘ァ! 何処に隠れおったあくわせふじこおぅぁあ!」


 青ずきんの美味なる少女芳香は未だ消えず、狼は気も狂わんばかりに辺りを探し走り回りますが、青ずきんの眼前を何度も通っているのに、見つけられません。




 一晩中走り続けて狼はへとへと。やがて暁鐘の鳴る頃、青ずきんは姿を現して、

「狼さん、私を食べないの」


「一晩中そこに」


「ええ、こうして座ってたわ」


 狼はつっぷしてわあっと泣き出し、

「ボクはダメな狼だ……人を喰うのが止められない……死んだ方が良い……」


「あら、それって健全なオトコノコなら普通の事じゃない? けど」


 すと立ち上がった少女の背丈の高きに狼は妙に感じ入って声も出ずに。


「人の肉を食べるのなんかよりもっと気持ち良いこと、してあげようか?」


 少し持ち上げられた口の端とふふんと見下す眉にごくりと。


「おねだりできたら、してあげる」




 ずきん。








 青ずきんは狼を平らかな石の上に座らせ、青染のずきんを脱いで被せてやり、歌います。


「川のおもてにお月様、松風のワルツ眺めて、終わらないこの長い夜、清らかな宵……」


「それ、なんだい」


「考えるのよ、この詩の意味を……わかったら、ステキなごほうびをあげる……」


 そうして青ずきんは行ってしまいました。








 森の人喰い狼の噂はいつしか忘れられます。


 けれど狼は今でも青いずきんをかぶって石の上。ごほうびに杖で打ってもらえるのをうずうずしながら待っています。時々、彼の呟く声を聞いたと言う動物もいるのです。


「……川のおもてにお月様、松風のワルツ眺めて、終わらないこの長い夜、清らかな宵……」






 青ずきんは、まだ戻ってきません。




* * *


 短編第87期投稿。


 元ネタ:雨月物語より青頭巾

飼育の関係

 何しろ此の時代である。少女に家族は無い。摩天楼の居並ぶ街の片隅、黴臭いアパアトメントの一室で暮らしている。近頃はその様な子供も大変多い。


 或る日の暮れ方、少女は市の高架チュウブを、宛てどもなくぼんやり歩いていた。少女は毎夕そうして市を彷徨い歩く。その日の食の為である。西方に陽が沈み東方に月の残骸が揚がる頃、少女は赤銅色の市へ入る。街路の人通りは疎らで、遥か上空から、建造ロボタの労働する遠雷の声が聞える。と、少女の後を附いて歩く、一匹の猫がある。此の時代に生きた愛玩動物など珍しい。元は白であろう毛は汚れて薄墨色、まだ若い。少女は戸惑いながら、平生より世話になっている麺麭屋の青年の元へ着いた。

「此の猫、如何したら良いのでしょう?」

「奇妙なものですね。御家で飼ってみては」

 青年は普段より多くの麺麭を、少女の煤けた手に握らせた。


 少女は自宅へ猫をあげ、そっと麺麭と水を差し出した。猫は目を輝かせ、麺麭を齧り、水も少しだけ舐めた。そうして痩せた腹を膨らますと、部屋の隅の毛布で丸くなってしまった。寝床を奪われ少女は途方に暮れた。猫は和毛に包まれた腹を微かに上下させ、心地よさそうに眠っている。少女は恐る恐る手を伸ばし、猫の背に触れた。猫は満足げに寝息を立てている。やがて少女は猫と寄り添い、寝床に潜る。

 アパアトメントの一室は全てが死に絶えたが如く動きの一切を失った。此の建物は元の住人の去ってから永く、既に空調も働かない。何処からか聞えるのは唯、機械の廻る幽かな音。




 少女が起き上がる。振り返り、温かく柔らかな、幸福そうな猫を見つめる。少女は素早く立ち上がり、部屋を飛び出した。


 既に闇の刻である。街燈も粗方故障したきり修繕されない此の区は、陽が落ちれば彼方上空の都の灯りが洩れ注ぐ外に光は無く、天は忌まわしいシアンデリアのようだ。少女は瓦礫に埋もれた旧市街を疾走し、先刻の市の街路に立つ。生温い風に揺れる傷だらけのワンピイス。煤けた小さな拳で、少女は麺麭屋の戸を叩く。

「一体如何したのです」

 麺麭屋の青年が戸をあける。少女は青年に抱き付くように言う。

「私を飼って下さい」

「……それは嫁に貰えという事ですか。この国では許されないのはご存じでしょう」

「いいえ違いますわ、飼って欲しいの。ねえ、私を飼って頂戴」




 仮初の休憩を終えた猫は、尻尾を立て廃墟へ歩み出た。飼育の関係とは、存外困難なものである。


* * *


 短編第83期(2009年8月)投稿。

3という数字の秘奏性と虚造性と魔想性を考察するべくなされた一つの小さな空想譚

 地下鉄に乗って午後三時。だが地下だ、暗い。暗い暗い暗い隧道を黒い黒い黒い地下鉄がいくらいくらいくら走っても闇には追いつけぬ。地下鉄は空いている。が座席は埋まっている。私は立っている。地下鉄を好いてはいない。が予定は詰まっている。私は乗っている。

 隣の背広が窓あけた。だが地下だ、暗い。暗い暗い暗い隧道の黒い黒い黒い空気がいくらいくらいくらふきこんできても彼は気にかけぬ。私はそれがわからない。が書類は溜まっている。私は読んでいる。

 ふと顔あげた。窓ガラスが半分押し下げられできた空間。閃が光においてきぼりを食らう。気づいた。窓ガラスには私の身体が映る。が外の闇には映らない。ちょうど私の首から上が無い。私の身体はここに在り。が窓には首が無く。五体不満。私の愛しい愛しい愛しい首。おいてきぼりをくらったのでは。今頃はるか後方の暗い暗い暗い隧道で怖い怖い怖いと泣いて泣いて泣いているのではないか。しかしいくらいくらいくらクライクライクライしたところで助けは来ぬ。あわれな首は自分の受けた仕打ちの酷さを思い、いじらしくも独り歩みだす。が足が無い。首は座っている。

 隧道には鼠。やがて黒い黒い黒い鼠たちが首の回りに集い集い集い。群衆。が鼠はつまらない。なんだただの首か。そう首が地下鉄の窓からこぼれおちおいてきぼり食らうなどよくあること。鼠たちは思い思い思いの方角へ去、三匹が残。さあどうするこの首食してしまうか。一匹言う。やめて僕を食べないで。首言う。それじゃ、どうしたい。ひときわ出っ歯の鼠言う。僕を地上に出して。身体を見つけられるかも。鼠たちはしばし黙。無理だとは思うがね、やってみよう。

 出っ歯の鼠が先頭、顎の下に入って首支え。残りの二匹が後衛、首の断面の下支え。えっこらえっこらえっこら彼らは歩く歩く歩く。脇道に階段見つけチュウと鳴く。されど登れず。壁際に梯子見つけてチュウと啼く。やはり登れず。進むうち廃駅見つけチュウと泣く。なおも登れず。暗い暗い暗い隧道をますますます暗い暗い暗い気持ちで進みながら首は堪え切れずにクライクライクライされどいくらいくらいくら泣いてもどうにもならぬと鼠鼠鼠はチュウチュウチュウだが首はきゅうきゅうきゅう。

 私は散々の眼精疲労で凝り固まった首筋を押し込みながら青山一丁目で降りた。地下鉄を好いてはいない。が空想は猛っている。改札を出る。が残額足りぬ。チュウと鳴く。


* * *


 短編第82期(2009年7月)投稿。

CP対称性の破れ

 この束の間の待ち時間、「CP対称性の破れ」について、お二人さんにお教えしよう!


 ここに映画館の椅子。映画館の椅子、ひじ掛けに飲み物とか置けるホルダーあるね。このホルダーが今夜の主役。ホルダーに置くものは、コーラ(映画館にぴったりな飲み物はコーラ! オレンジジュースは軟弱な選択だ、ウーロン茶は廃絶されるべきだ!)、あるいは一番ちっこいポップコーン(キャラメルも認許!)。映画館の椅子をぐるりと環状に配し、円の内側向きにひとびとを座らせる。彼らは手に手にコーラあるいはポップコーンを揚げる。革命の民は鋤と鍬を手にする!


 だが。自らの第二魂であるColaあるいはPopcornを、左右どちらのホルダーにおけばいいのか、彼らには、わから、ない。

 馬手のホルダーにおけば、右の人は憤慨するやもしれず、かといって弓手のホルダーにおくのも躊躇ってしまう。しかし(そう、哀れな観客はこう考えて慄く!)、左右両方のホルダーが左右両方の金城の城主に押さえられれば、自分はホルダーを使えぬのだ、ああもはや! これはまさに我が国に相応しい喜悲劇だ!

 そういうわけで。映画館の椅子のホルダーは、左右どちらにも属さなくって。しっかり対称性を保持してて。


 だが。円環の一点で、一人の娘が動く。

 美妙に滑る優しい黒髪を、風の滲む左手でやわらかくなでつけながら(これぞ我らの希求せしもの!)、右手に持ったPを、そのまま右のホルダーに差し込む! それを見た彼女の右の座席の英国風紳士は、しめたとばかりCを右のホルダーへ滑り込ます! その右の夫人も、微笑と共にPを右のホルダーへ!

 ほらほらおわかりか!? CP対称性は破られたのだ、この連鎖で! ホルダーの所有権がどちら側に属するか、円環の全員に言い渡されたのだこの刹那! 草原を駆けくだる炎! まさに!




「ごめん、ちょっととり乱した」

 私は座席にずるりずるりと沈みこんで一息つく。上映時刻まであと少し。

「ぶつぶつうるさいぞ」右に座る五つ上の姉がCを私の馬手のホルダーに置く。

「理系って自分の意味不明でキモい例え話に酔うよね」左に座る三つ上の姉がPを私の弓手のホルダーに置く。

 この圧倒的な不如意を如何せん!

 ちょっとふくれてみる。が無視される。照明がおちはじめ。私は自分の軟弱な選択を膝の上で支え。闇に乗じてお姉ちゃん達のCとPを勝手に頂くことに決める。繰り返す、これは、反乱である。


* * *


 短編第81期(2009年6月)投稿。

タイムバタフライ

 ガガガガガ、と凄まじい音を立てて、巨大な円環が回転を始めた。ヒュンヒュンヒュン、と、空気を切り裂く音がだんだん高く速くなってゆく。チタンコートのリングは直径10メートル。中心にはスチールチェアがぽつんと置かれている。八方からの光線で、その背もたれはメタリックシルバーからクロムグリーンへ。

「あの椅子に座ってこの装置を動かす」

 白衣の男が説明する。

「臨界点を突破すると、椅子の上の生命は過去へ転送される」

 男が電話帳のようなものを僕に半ば投げつける。

「それに基礎理論は書いてあるから君も読めばわかる」

 数式なんて見たくもない。

「ただしさっきも言った通り問題がある」

 そう、人間のような体積と質量をもった生命はうまく過去座標で凝固できず、蒸発する。

「そこでこれが役に立つ」

 男が第二のパネルのボタンを押す。今やカドミウムオレンジに輝くスチールチェアの上方から、やや小ぶりの第二の円環が降下してくる。人間の座高より少し高い空中で、天使の輪は静止する。

 キキキキキ、と不気味な音を立てて、第二の円環も回転を始める。パチパチパチ、と、ターキーレッドのリングから火花が散る。

「あれで転送対象を蝶に縮小、リビルダブルなサイズにする」

 男が投げつけた第二の電話帳を僕はかわす。

「その基礎理論は難しいから君には無理だ」

 男は白衣のポケットからウルトラマリンブルーのハンカチを取り出し額の汗をぬぐう。

「……本当に行くのか?」

 今日初めて親友と見つめあう。轟音を立てる第一のリングが10回転。僕はうなずく。


 決行は三日後。僕は施設を後にして、歩く。

 夕暮れの川沿いに伸びていく小道。早くも足元を照らして進む自転車。苦しそうに走る中年男。鞄で羽ばたく小学生。鯉と菓子を分けあう少女。見つめる白鷺。流れる川面。高架を叩いて去る電車。夕日に浸る栗の木を揺らす風。水田で大勢騒いでいる雨蛙。仄明るい雲の合間で少しずつ輝きを増し始めた宵の明星。

 自分の現在と未来を捨て、蝶になってまで過去に行く。一体、蝶で何ができる。羽ばたくことができる。羽ばたいただけでは何も変えられない。……と、誰が言い切れる。証明好きの悪魔はカオス理論をどう考える。

 残照の銀朱の中、一羽の大きな紋白蝶が、どこからかひらひらと飛んできた。

「時をかける蝶々、か」

 傾く日の中で必死に宙を漂う魂に、僕は問う。それで君は、そんなに一生懸命に羽ばたいているのかい。


* * *


 短編第79期(2009年4月)投稿。